2020/05/02

 

時には辛くても平気な顔をして生きていかねばならない日だってあります。それは大人になるにつれ増えていき下手くそな笑顔が上手になるというヘンテコな自分に出会ってしまうのです。テレビの録画残量が減るたびに心までもがすり減っていくあの感じに私はもうすっかり慣れてきた。今日も赤い点滅が目の前を横切る。

 

ある映画のエンドロールでは、渋谷川をひたすら歩き続ける女子高生が映る。彼女たちの履いているルーズソックスがずれ落ちていくのを見てると不幸の捉え方は人それぞれなんだと教えてくれているようで。私は沢山の仲間たちと楽しさだけを胸に笑う喜びを知ってる。それと同時に私は沢山の仲間たちと楽しさだけを胸に笑う人たちを途方もなく眺めることしかできない虚しさも知ってる。泣こうが喚こうが、騒ごうが笑おうが、どちらかに偏ることはできない。それが時々辛い。

 

カメラロールが憎いなんて初めて思った。ライブの帰りに今見ていた景色は全部スクリーンの中の物語だったんじゃないかと寂しくなるアレと同じだ。カメラロールに保存されている写真や動画はどれもこれも私が体験してきた物語のはずなのに、まるで他人事だ。どうしてみんな「懐かしいね」なんて簡単な言葉で片付けられるんだろう。私の、この散らかった心のはけ口は何処に?

 

生きたいけど死にたい。そんな気持ちがよく分かる。同情とは時には救いに変わる。嘘でもいいから分かってほしいことだってあるでしょう。私にはまだ叶えきれていない夢が両手いっぱい埋まるほどにある。それとは別に死にたい理由だって片手いっぱい埋まるほどにある。死にたいけど生きたい。そんな気持ちがよく分かる。

 

生きたいとき。好きな歌を集めたプレイリストを作成してるとき。夢の中で映画を撮っていたとき。友達と長電話をしたとき。ライブに着ていく服を選んでるとき。ドキュメンタリー番組を見たとき。猫を撫でてるとき。誰かにありがとうと言われたとき。あったかいご飯を食べたとき。叶えたい夢を思い描いたとき。

 

死にたいとき。上手く笑えなかったとき。涙を我慢できなかったとき。お水をこぼしたとき。人の痛みに気付けなかったとき。少し先の約束を交わしたとき。小さい声で会話をしているのが聞こえたとき。満員電車に乗ってしまったとき。市役所に行ったとき。数ヶ月先の未来さえ思い描けなかったとき。

 

私は「頑張れ」という言葉が嫌いだ。安っぽくて単純で嘘をついてる気がしてならない。それなのに私は人にも自分にも簡単に「頑張れ」と言ってしまえるような人間だ。頭が、口が、覚えてしまっている。今までどれだけの「頑張れ」を交わしてきたんだろう。その中でどれだけの「頑張れ」が本物だったんだろう。頭ん中で一時流行っていたアイドルの応援ソングが流れてる。こういう曲に励まされ生きてきた人だっているんだ。もしかしたら私が送った「頑張れ」も誰かの明日に繋がってるかもしれない。それはそれで嬉しいもんだ。