2022/04/26

 

大人になってから手紙を書くことが減った。それでも可愛いシールとかレターセットを見つけるとつい買ってしまう。私は常々「死にたい」と「手紙を書きたい」をローテーションしていて結局のところ可愛いシールとかレターセットを買うことでどうにか落ち着いている。本を読んだ後に遺書を書きたくなる私、友達や先輩から貰った手紙はちゃんと保管していて時々読み返す私、自分のことがどれほど嫌いでも思い出を大切にする私だけは愛おしく守り続けたい。ああ、手紙を書きたい。読んでくれる人にしか送りたくないけど手紙を書きたい。

 

働くことにトラウマを抱いて以来、私は私を甘やかして生きている。連勤が無事に終わった日は無事に終えられた私をコテコテに褒めちぎる。変な話、目の前に私が居るならば頭をワシャワシャしてあげたいくらい。休みのターンに入ると不安が一気に押し寄せる。働いても休んでもゴールの先に待っているのが新しいスタートである「大人」という名の無限ループが辛い。一人で生きていくならば働くしかない。私は一人が好きだけど独りは嫌だ。よくある決め台詞のように吐いてはみたけど、本当の本当に独りは嫌だ。やはり生きるのは難しい。

 

生きるとか死ぬとか、大人とか子供とか、忘れたいことも忘れられないことも忘れたくないことも、なんだか色々と悩みが尽きない。ドラマの録画残量が減るたびに心の余裕も減っていく。どの時代の私も悩んで悩んで悩み疲れている。おんなじ話ばっかりしているのは私が私である証だから許してほしい。良い睡眠ができて恋をして感情の全てを涙に代えなくなったとき。それが私の変化の時。今はまだ好きなバンドのラブソングにさえ感情が乗らない。

 

ハッピーエンドを期待してバッドエンドを迎えるよりもバッドエンドを覚悟してハッピーエンドを迎える方が良いと考える。もしもハッピーエンドにならなくても「想定内です」と言えるように生きていきたい。私がダメなのは心の底の底、私ですら操れない底の部分でまだ期待とやらを持ち合わせているからだ。そうか、分かった。ハッピーエンドという概念を捨て去ろう。そもそもなにがハッピーでなにがバッドだと言うのだろう。もしかして今、私はものすごく人間らしくてものすごくダサい話をしているのでは。

 

手紙の話をしたためていたはずが最終的に生死を考えているのが私だ。「死にたい」と「手紙を書きたい」を同時に広げてしまうのが私だ。何をどうすれば=になるんだろう。赤いポストから連想されるのはいつだって幼い頃の私だったり小学校までの通学路だったり近所のスーパーでママと買い物をした記憶。直接的には関係していないけど、きっとその記憶のどこかに赤いポストがあったから。もしかすると好きな絵本に出てきたのかもしれない。私はやはり死にたくて手紙を書きたい人間なんだ。