2019/10/10

 

深夜に観る宮藤官九郎の映画は何割り増しにも面白く感じる。車に乗りながら、麦茶を飲みながら、洗濯物をたたみながら、歯磨きをしながら、考えることのほとんどはものすごく大切なことのようで大したことがない。そう見せかけてやっぱりすごく大切なのかもしれない。

 

私はすぐに過去を振り返る。私は一体どの瞬間に戻りたいんだろうか。友達とユニバのアトラクションに並びながらしりとりをしていた時?早朝に白い息を吐きながら仲間と映画を撮るために駅へ向かっていた時?付き合ってた人と一緒にお家でビーフシチューを作っていた時?夜行バスの窓側の席に座ってカーテンの隙間から小さな光を数えていた時?私は一体どの瞬間に戻りたいんかが分からない。分からなくて苦しい。唯一分かることは今が一番不安だということ。

 

バイトの募集欄に書いてある「明るくて元気な人」という文字を見ると気分が悪くなる。この世は個性と無個性のぶつかり合いだ。私はいつだって私で居たいのに、そうはいかないのだ。それがどうしてかはちゃんと知っている。知っている上で、私は私で居たいのだ。

 

心の中にある余裕が全てなくなってしまったときはまず最初に喉が乾く。東京でバラエティ番組のADをしてたとき最寄駅から家までのたった10分さえも我慢できずにコンビニで少し高いオレンジジュースを買って飲み干す日が何度かあった。喉が潤ってようやく悲しみがこみ上げる。悲しみがこみ上げると悔しみが溢れ出す。悔しみが溢れ出してようやく涙が出た。

 

ママの妹は私が生まれてすぐの頃にバイクの事故で亡くなった。まだたったの14歳だった。お盆になるとお墓参りに行く。ばあちゃんはいつもミルクティーと煙草を供える。私はいつも思う。彼女はきっと、もっと、生きていたかったんだろうなと。

 

お酒もあまり飲まない。煙草も吸わない。料理は得意ではないけどある程度はできる。人を愛し尽くす自信だってある。伝えるのは少し下手くそだけどちゃんとその人を受け止めていく覚悟だってできる。それなのに何もかもが上手くいかなくて何もかもが駄目になった。私が流す涙は誰の目にも映らない。ああ。あいみょんの歌みたいな言葉を書いちゃったな。この先は今までよりも。そんなことを考えることすらしんどい。私はもう恋も人生も神様に委ねるしかないのかもしれない。

 

読み返すと散々な言葉を綴ってきたけれど、今までは割と何でも自分一人でやってこれた。ずっと一人でやってきた。それなのに今になって一人で生きていくのが難しくなってしまった。眠ることも食べることも生活の全てが精一杯になってしまった。明日には興味がない、それは変わっていない。スピッツだけが正義、これも変わっていない。今の私の救い。

 

色んな夢や目標を持っていたけどそうは言ってられなくなってしまったんだ。今はただちゃんと寝てちゃんと食べてちゃんと動く。そこのスタートラインに立ち直さなくてはいけない。靴紐を固く結んでちゃんと腕を振って足を上げてちゃんと走れよ自分。

 

昔、居酒屋のトイレに貼ってある世界一周旅行のポスターを見ながら将来を思い描いていた。頭の中に浮かんだ言葉を丁寧に並べて刻んでいく。それがいつの日か私の全てになればいい。目を瞑り蘇ってくる風景の中で今日もまた生きてゆければそれでいい。