2022/03/28

 

期待はしない方が身のためだと思ってる。今の場所に越してきて丸二年半が経った。まだ私はこの町を好きになれていない。私のためにここへ来たのに誰のためにもならなかった。いつまで今の仕事を続けるんだろう。いつまでしがらみを抱えて暮らすんだろう。これでいいと言い聞かせることが精一杯で後先を考える余裕がない。猫を撫でたり美味しいお米を食べたりしながら穏やかに過ごしてゆきたい。私よりも暗い文章を書く人のブログを読んで泣けない彼女の代わりに泣いてる。眠れない日だけは誰かの手を握っていたい。無理だけど。

 

このままで良いのならば。私は好きな言葉を好きなように綴り、カメラを構え自由に世界を作り、ときどき人と会ってお酒を飲み、過去を愛おしく守り続ける。頑張ってる頑張ってないは他人に決めてもらうことじゃないよ。私が私を頑張ってると認めたらそれは立派な功績なんだよ。そんな呪いをかけながら。何かを手にしたくなる日もあるけれど私は私の身の丈にあった暮らしに満足したい。大好きだったアイドルのことや映画を撮っていた頃の私や色んな人と色んな会話をした記憶がふと蘇る。忘れたくないと思ったあの日が憎く、今は忘れたくてたまらない。これもまた身のためだから。

 

人生の勝ち負けとは。そもそも生きる上で戦う必要性なんて絶対にないだろう。戦争なんてもってのほか。久能整くんも言ってたよ。闘病という言葉に対し「負けたから死ぬのか?勝とうと思えば勝てたのに努力が足りなくて負けたから死ぬのか?」その通りだと思った。人混みに行くと人間がどれほど自分のことしか考えていないのかがよく分かる。守るために備わっている信号を平気で無視する。ヤフコメはいつだってロクでもない奴の集いだ。それなのに勝ち負けにこだわり、感動や神聖を安く売り、都合よく仲間意識を持つのも人間。何が悲しくて私は人生の負け組にならないといけないんだろう。

 

生き甲斐という言葉があるくらいだから生きていくにはそれなりの理由が欲しい。好きなアイドルがいた頃は何も苦じゃなかった。電車賃が足りず四時間かけて歩いた帰り道もライブのセトリを聴きながらだと、むしろ幸せなくらいだった。青春を見逃したくなくてバイトを辞めた学生時代。人を好きになることで泣いたり笑ったり忙しかった日々も今思えば生き甲斐だった。それなりの理由とは、映画館で観る映画とかいつもより高い昼ご飯とか面白かったドラマの最終回とかそんなものではない。こんな風に言葉にして言い例えられるものではない。

 

今の暮らしがいつまで続くのかは分からない。私が私に耐えられるタイムリミットも分からない。猫を撫でながら永遠を願う。大人になってもまだ永遠を願っている。荷造りが終わっていない状態で荷ほどきを始めるような気分だ。この町に越してきて三年目の春。私はずっとずっと前の話をしている。早速だけど言い直そうと思う。私はどうやら荷ほどきが終わっていない荷物をせっせとまとめて元に戻そうとしているのだ。つまりは過去にも未来にも予防線を張り逃げ道を作って生きているのだ。もしかするとこれが私の生き甲斐なのかもしれない。