2020/06/06

 

心の中にある余裕が全てなくなったときはまず最初に喉が乾く。東京で働いてたとき、最寄駅から家までのたった10分も我慢できずコンビニで少し値段の高いオレンジジュースを買って家に着くまでに飲み干す日が何度かあった。喉が潤ってようやく涙が出る。悲しさも悔しさも寂しさも少し値段の高いオレンジジュースが満たしてくれた。そしてまた喉が乾く。

 

ママの妹はバイクの事故で亡くなった。私がまだ幼稚園にも入ってない頃。たった一四歳だった。数年前までは毎年お盆になれば墓参りに行った。ばあちゃんは必ず緑色の箱の煙草とミルクティーを添えて誰よりも長く手を合わす。そんなばあちゃんを見ていつも思った。彼女はもっと、もっと、生きたかっただろう。

 

知り合いの恋人は病気で亡くなった。私がまだ中学生だった頃。たった二十歳だった。この話を聞いた日、大人たちに「あんたも聞いときなさい」と言われた。大人の話に参加できることが少し嬉しかった。涙ながらに話す彼女の顔は今でもよく覚えている。あれからどんな生活を送っているのかは知らないけど幸せだったらいいなと心から思う。人はみんな幸せになるべきだ。

 

二十三歳。人の死が少しだけ身近になる。考えるべきことは沢山あるだろう。私は時々自分の死を考える。残すべき言葉は何か、隠すべき事実はどれか、私が死んだ後の世界のことまでも考える。私の人生を様々な場所で彩った人々が私のお葬式で顔を合わせることを想像したらちょっとだけ照れ臭くなった。

 

本を読むと遺書を書きたくなる。不思議だ。頭ん中で何百もの登場人物たちが笑ったり怒ったり泣いたり忙しなく通り過ぎていく。幻であろうと誰かの夢であろうと名前を貰い生活を貰い短くも長い人生を謳歌した彼ら彼女らを見ていると私もこの世に何か残しておきたくなるのかもしれない。

 

今年初めての半袖を着た。夏が来ると毎年のように心臓がドキドキする。匂いだったり空気だったり雲の大きさだったり。私の生きたいつかの夏が今の私を包み込もうとする。あの感じがちょっとだけ苦手だ。夏だからといって冷たい水を飲むとお腹を壊す。私の夏は油断をするといつかの私を切なくする。そういう季節。

 

誰かの言葉に一喜一憂して生きてきた。自分の言葉に自信が持てず生きてきた。鏡に写る自分を見るたびに「可愛いね。偉いね」と言ってあげていたら今頃何かが変わっていたのか。誰かのために生きることも自分のために生きることも何が正解かなんてもちろんなくて結局はそれぞれの人生。「私らしく」はきれいごと。じゃあ一体何のために生きればいいんだろう。喉が乾く。少し値段の高いオレンジジュースを飲む。眩しい日差しの中を突き抜けて私はいつかの私のために生きるのだ。